GlassEye Inc.

海老原一己

 KAZUMI EBIHARA

 

株式会社 グラスアイ

編集室 東京都千代田区鍛冶町2-1-2 神田南口鋭光ビル6F

山梨分室/KADOYA 山梨県南巨摩郡身延町八日市場556

e-mail ebihara@glass-eye.jp

 

建築写真専科 竣工写真撮影 /ドローン撮影

 

日本建築写真家協会 https://japs.jp/

 

 

撮影経歴 

 

1992年〜2007年 建築写真専門事務所  勤務

2007年10月 GlassEye Inc.   設立

 

 

回顧録

 

ソファにもたれかかり、窓から外を行き交う人をぼんやり眺めていた。

雨が降っている。外の話では無い。部屋の中だ。嫌な予感を抱きながら恐る恐る天井へと視線を向けてみる。

大きなシミがジワジワと広がり、そこから滴る水はポタポタとカーペットを湿らせている。

慌ててバケツを用意すると、今度はポタンポタンと大きな音に変わり、跳ね返りの滴はバケツの外へ飛び出す。

その滴を拾う雑巾を敷き詰めて一服。タバコを燻らしながら「これは困ったな。雨漏りを直すなら日が照っているうちだよな」

そんな事を考えながら呆然と天井を見つめていた。

部屋の片隅では、壊れかけたレコードプレーヤーからサラ・ボーンが聴こえていた…ような気がする。

もしかしたらビリー・ホリデーだったのかも知れない。いや、違うな。クリスタルウォーターズのGypsy Woman(She's Homeless)"か?

別の記憶かもしれないが、開局したばかりのJ-WAVEからはマルティカの"Toy Soldiers"が流れていたような気もする。

妙な感覚だが、あの頃を思い出すと僕の頭の中は何だか頼りなくなるのだ。

 

あの日、銀座のイエナ書房で見つけた「写真都市」村井修写真集を眺めていた。

国立代々木競技場第二体育館のモノクロ写真に圧倒される。自分がこの世界に入るきっかけとなった写真だ。

いつも見慣れている代々木体育館が写真家の目を通すとまるで違った世界に見えるのだと驚いた。

気がつくと雨漏りしている事もすっかり忘れて写真集を読み漁っていた。

 

1992年の秋、都内にある建築写真専門の事務所の門を叩く。

 

都の西北で建築を学んでいたのだが、卒業課題の模型を提出できず見事に留年が確定。

いやいや模型は徹夜で完成していたのだ…しかし、山手線の網棚に彼を載せたまま自分だけ高田馬場駅で下車してしまった。

直ぐに捜索願いを出したところ…どうやら彼は品川駅の駅員室で私を待っているという情報が入って来た。

急いで引き取りに行ったその先にはボロボロになって変わり果てた姿があった。あまりの惨劇に呆然と立ち尽くす。

頭が真っ白になってしまい、その後どうやって帰ったのか…全く思い出せない。

 

この時かも知れない…私の人生の歯車が狂い始めたのは。

 

 

 

 

新学期が始まり気を取り直してアルバイト情報誌をペラペラめくっていると、建築写真事務所でアシスタント募集記事を発見。

写真の世界には全く興味が無かったのだが…と言うのは嘘で、家庭の事情で生活難に喘いでいた私は、今日生きる事で精一杯。

毎日その瞬間しか生きていなかった。とても〝写真〟などと言う〝道楽〟に現を抜かしている場合では無かったのだ。

勿論、幼少の頃から写真には興味があった。だけどうっかり近づくと間違いが起こる可能性があるので、出来るだけ近づかない様にしていた。

しかし、仕事となると別だ。沢山の建築を観る事が出来るだろうと言う理由で応募してみた。

その思惑は見事に的中する。雑誌に掲載される著名な建築家の作品を観たり、実際に建築家と会って話を聞く機会にも恵まれる。

 

アルバイト初日に「これでも読んで建築写真を勉強しなよ!」と先輩から渡されたのが、建築写真家の巨匠・高井潔氏執筆「建築写真術」。

この本は建築写真家にとってのバイブルだ。4×5カメラを使った撮影方法が余すことなく説明されている。

何度も繰り返し読み続けボロボロになってしまった。

 

余談だが高井氏は私が所属している日本建築写真家協会の代表を務めている尊敬すべき御仁である。

「建築写真術」と出会ってから30年、高井氏には今だに公私に渡ってご指導を受けている。とても感謝している。

 

 

 

 

しかし、良いことばかりでは無かった。

 

当時、事務所には総勢15名ほどのカメラマンと私を含むアシスタント3名が在籍していた。

現場の大小、仕事の内容によって毎日違うカメラマンのアシスタントに振り分けられるのだ。

とても変わった独自の世界観を持つ人が多く、彼らに合わせて行動する事は私にとって苦痛以外の何者でも無い。

いわゆる写真オタクがそのまま大人になった様な感じ…で、全く社会性に欠けていた…様な人が多数。

こんな奴らを真面に相手にしてはダメだと自分に言い聞かせながら過ごす日々。

いかんせん私はアシスタント。カメラマンに意見を言う事など出来るはずも無い。

 

また、先に書いた様に、私は毎日その瞬間しか生きていない。馬車馬の如くカメラ機材を担ぐ毎日。

始発で出勤して終電で帰宅できれば良い方で、繁忙期にはB1のスタジオで雑魚寝する事も多かった。

学生時代からの友人達は突然姿を消した私の事を、怪しい宗教に出家してしまった様だ!と噂しているのを人伝に聞いた。

大方間違えでも無い話である。

 

一年が過ぎた辺りから先輩カメラマンの写真を観るにつれ、この程度なら自分でも撮れるのではないかと思うようになる。

そんな事を口に出したら殺されるので黙っていたのだが「よくこんな写真で食べて行けるよな」と顔に書いてあったに違いない。

私の後輩などは、自分ならもっと上手く撮れると言ってさっさと独立してしまった。

その後どんどん写真にのめり込み、一発奮起して建築写真家を目指す事になる。同時に学校へ戻る気持ちも薄れ中退を決意した。

自分も村井先生の様な写真を撮りたい!そう思う様になっていた。

スナップ写真すらまともに撮った事も無いのだが、絶対に良い写真が撮れるという妙な自信はあった。

しかし写真の学校を出ていない私には全くチャンスが回って来ない。後から入社した連中はどんどん追い抜いて行く。

体育会系の序列で育った自分には耐え辛い屈辱だった。世の中の不条理を感じたのだが、これも修行の一つと自分に言い聞かせた。

私をカメラマンに昇格させるとアシスタントが1人減る。だから先輩は私をカメラマンにさせようとしない…と言う無限ループ。

通常、先輩カメラマンがそろそろコイツをカメラマンに昇格させても良いのでは?と経営者に助言してくれるのだが…

自分達の事をリスペクトしない、いけ好かないアシスタントの私を応援する先輩など誰一人としていなかったのだ。当たり前だ。

 

当時、建築業界はバブルの残映で大変忙しかった。四年目のある日、その時が訪れた。やっとチャンスが巡って来た。

4×5カメラを使った事も無いシロウト同然の私が、戦場(現場)へ駆り出される事になったのだ。

その日に限って撮影案件がブッキングしてしまい、猫の手を借りたいほど。

 

10%の才能と20%の努力…そして、30%の臆病さ…残る40%は…運だろう…な…

 

デューク東郷のセリフが浮かんだ。運が良かったのかもしれない。

 

その現場は忘れもしない埼玉県桶川市に完成した食品工場。某組織系設計事務所からの依頼。誰も動けないので私が行く事になった。

社員食堂の家具(椅子とテーブル)を一心不乱に揃えていると、背後から声を掛けれた。

振り向くとビシッとスーツを着こなした偉そうな人が…「キミ、名前は何て言うの?あと3件現場があるんだけど、全部キミに任せた!」

この方はその設計事務所に所属する設計部長であったのだ。「朝からキミの撮影している姿を見ていたんだけど…」

「時間を掛けて丁寧に撮ってる姿が気に入った。ありがとう!写真を楽しみにしているよ」

 

オイオイオイ、ちょっと待ってくれ!俺は今日デビューしたばかりなんだよ…ちゃんと写っているかも分からないのに(心の声)

時間が掛かったのは4×5カメラの操作が不安で繰り返し確認しながら撮っていただけなんだよ( 汗

 

私は正直に言った。「せっかくお声掛けしてくださりとても光栄ですが、実は私、今日カメラマンデビューしたばかりなのです」

「ちゃんと写っているかも分かりません。出来上がった写真を観てから次の仕事の話をして頂けないでしょうか」

 すると設計長は笑いながら言う。「大丈夫。キミが一生懸命撮影に向き合う姿勢が気に入った。次も任せた!」

 

 

 

 

 

 

1996年、ついに念願が叶う。

私の建築カメラマン人生を大きく変える出会いがあった。

 

お台場に完成したFCGビル(フジテレビ)の竣工写真撮影を所属事務所が受注。

アシスタント時代、クルマで湾岸道路を走っていると、右手に工事中のFCGビルが見えた。

その時は誰が撮影するんだろうな?と漠然と見ていた。まさか自分が撮影する事になるとは夢にも思わずに。

 

設計は丹下健三・都市・建築研究所。

撮影アングルの打合せ当日、メインカメラマンとして撮影に入る事になっていた先輩から

「ごめん!別案件の打合せが長引いている。俺の代理でFCGの打合せを頼む!」と連絡が入った。

本来ならばサブカメで撮影に入る事になっていた私は、渋々一人で打合せの席に着く。

あれだけ大きな現場なので、全部で500カットは撮影する事になる。しかも、打合せた本人でないと上手くない箇所も多数出てきたのだ。

自動的に私がメインカメラマンの座に着く事となった。

そして、私がこの世界に入るきっかけとなる村井修先生と丹下健三先生の仕事ぶりを見る事が出来るまたとない機会が到来。

この時だけは心の底からチャンスを与えてくれた所属事務所に感謝した。

 

数ヶ月後、「SD別冊29号 フジテレビ本社ビルの記録」に使用するポジフィルムを整理する為に、丹下事務所で模型製作室をお借りして

夜遅くまで一人寂しく作業を続けていた。

 

ふと背中に視線を感じたので振り向くと…

 

な、なんと!そこには丹下健三先生の姿が。後光が差している様に見えた。

 

秘書の方と一緒に部屋へ入って来られた丹下先生は、整理していた写真を観ながらこうおっしゃった。

 

丹下先生「この写真はあなたが撮影されたのですか?」

 

私「ハイ、私と村井先生が撮影しております」エビ反るくらいに背筋をピンと伸ばして即答した。

 

丹下先生「そうですか。ご苦労様です。」「ちなみに、あなたはロンシャンを観た事がありますか?」ニヤリと笑みを見せた。

 

私「ロンシャンとはル・コルビジェの事ですか?ロンシャンの礼拝堂でしたら建築雑誌で観ました!」

 

丹下先生はその答えを待ち望んでいた様子で、またニヤリと笑みを見せ「そうですか」と言う。

 

丹下先生は続けて…

 

「世界中でごく一部の人しか実際にロンシャンへ訪れる事が出来ません」

「あなたと同じ様に建築雑誌や写真集などで観ているのです」

「フジテレビも同じです。ごく一部の人だけしか実際には観る事が出来ません」

「あなたの使命は写真家として写真映像で建築を伝える事です」

「建築の素材、質感を写真で表現して下さい」

「プロポーションを大切に切り撮って下さい」

「そして、その空間に流れる空気を表現して下さい」

 

その様な事をおっしゃった。

私は余りの衝撃で気絶しそうになった。あの丹下先生からこんな有難いお言葉を頂ける日が来るとは夢にも思わなかった。

この日の出来事は一生忘れる事は無いだろう。心底建築写真家になって良かったと思った。

私が常日頃「建材の素材感と建物のプロポーションを表現する」と口にしているのは、実は丹下先生の受け売りなのだ。

 

 

しかし喜びも束の間、事務所の経営方針「極端な成果主義」について行けず。

また、最後は心身共に疲弊して心の病に侵され…”儲け最優先”⁉︎の組織から脱落を余儀なくされた

自分は何の為に写真を撮っているのだろうか?

 

2007年の春。誰もが抱く会社に対する不満により独立を模索。15年に及ぶサラリーマン生活にピリオドを打つ。

そして初心に戻り「建築写真」を撮るためにグラスアイを立ち上げる事を決意する。

 

今はもう二度とサラ・ボーンやビリー・ホリデーは聴きたくない。何も無かった日々が思い出させるからだ。

 

2021年現在、もう直ぐ独立してから15年を迎える。皆様から需要があるうちは頑張ろうと思う。